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Posted by スターリンクさがみ運営事務局 at

2016年08月23日

掃除嫌いが掃除をした



私は掃除が嫌いである。しかし、先日、愛犬凛太郎のガールフレンドの桃ちゃんのお母さんに、ついに汚い我が家を見せる機会が訪れてしまった。
 桃ちゃんの家の庭や、雨の日にはalmo nature 狗糧家に上がらせてもらって凛太郎は桃ちゃんと遊んでいる。でも、私の家は余りに汚いので今まで、よう来てもらわなかった。常々、桃ちゃんのお母さんにも「家を見たら、人格が疑われるほど汚い」と宣言していたが、お母さんもまさかこれほど汚いとは想像しておられなかったようだ。
 家の中を見るなり、ほとんど絶句。「こら私でも1日では掃除できひんわ」とおっしゃった。私も開き直ってしまっていたので「わはは」と大笑いをした。お母さんも「わはは」と豪快に笑っておられた。笑わんとしゃない。そんな汚さだったのだと思う。
 私もついに、やはりこのままではいけないかと思った次第であった。お母さん曰く「凛ちゃんの足の踏み場がない」。 そこまでひどいとは思っていなかったが、確かに凛はモノを避けもするが、踏みもして家の中を歩き、走っていた。

 一念発起。よし頑張るぞ、と掃除を始めた翌日、タウン情報誌YOUの記者さんから電話がかかってきた。取材の申し込みであった。拙著「里山ーてのりアマガエルと暮らしてー」を献本していたので、本を読んでいただいた結果、取材をしてもらえることになったようだ。ただ、テーマは「私の定年後」ということだったが、本がちいとも売れない私には、載せてもらえるだけでただありがたい。本を送ってから10日余り日がたっていたので、掲載は無理だとあきらめていたので、なおalmo nature 狗糧嬉しかった。取材は2日後ということになった。
 桃ちゃんのお母さんの視察のおかげで、掃除をし始めていたからかなり救われたが、草抜きをほったらかして、仕事に行く時間以外は集中して掃除を頑張った。その結果、モノに埋もれていたテーブルはようやくその使命がはたされるべく本来の姿である、テーブルの表面が現れることとなった。ものすごく頑張った。涙が出そうになるくらい頑張った。つくづく掃除嫌いの自分を知った。掃除ごときで泣ける寸前までいったのだから。

 さて取材当日、記者さんにスリッパを出したら埃が舞った。その時やっと、スリッパ立ての掃除を何もしていなかったことに気がついた。とほほ。面目無し。慌てて、埃を拭くが、記者almo nature 狗糧さんに申し訳ないやら恥ずかしいやら。

 ほかにもまだ掃除ができていないところはあったけど、スリッパ以外は、何とか見た目は一応キレイにできたつもりで取材を受けることができた。

 しかし、その3日の間に畑の草も庭の草も著しい成長をとげていた。そして取材後は家の中をほったらかして草抜きに励んでいる。家の中は、だんだんとモトに戻りつつある。嗚呼。  


Posted by Aminy at 11:42Comments(0)life

2016年08月17日

有一種境界叫作洗盡鉛華



喜歡一個詞,叫洗盡鉛華。我喜歡將它比做reenex 效果女人,你願去細細品她,自會有一番韻味在其間。

  洗盡鉛華,那好似是過來人話說以前時,帶著的三分滄桑,三分成熟,三分睿智,還有一分淡泊的味道。一切仿佛都已落幕,而她在幕後掛著洞悉世事的微笑,娓娓地向你道來那時發生的故事。或起伏,或悲喜,卻都是很平淡的語氣,不是為了刻意淡化那時的痛與悲傷,只是,記憶真的有些斑駁。

  過錯,已經寬恕了,所以,淡忘了。仇恨、嫉妒、淚水、傷痛都伴往事隨風飄散了。那貌似很遠,卻感覺很近的回憶,讓你恍惚的以為她只是旁觀,而非當局,可你卻也不會有絲毫懷疑,那是真真正正發生在她身上的故事。就是這樣的女子,她的心有寬容與其共住,你永遠也看不透她的笑容是由多慘痛的經歷磨礪而來,舉手投足間懷有對這世間領悟的通透,無論遭遇什麼,都能笑的雲淡風輕,站在那裏自成一種歲月靜好,現世安穩的錯覺。她如一縷清音,本只是淡淡的餘響,應索然無味才是,卻偏偏繞梁三日而不絕。

  洗盡鉛華,不是“出淤泥而不染”,而是先染了淤泥,終覺它的污穢,最終跳脫出來。想來這比起一開始就不知污泥為何物要更可貴些,因為這需要更大的勇氣和reenex cps價錢定力,畢竟“浪子回頭金不換”。那是閱盡了世間的人生百態,不是故作蓮的清高,才不與世俗同流,而偏偏就是融入其中,你卻仍能一眼發現她的不俗與出眾。

  是不是真的洗盡了俗世的塵埃,看透了紅塵的悲哀,如鳳凰涅槃,浴火重生般,脫胎換骨後就可飄然出塵了。我反而覺得不盡然,洗盡鉛華,只是對一些事終於看透了,想開了,放手了,釋懷了。以前的一切,無論恩、怨、情、愁,都只是往事如煙,之後再相遇,可以一笑泯恩仇了。

  可終其一生,如何才能洗盡鉛華,恐怕也只能託付給時間。正是因為時間的無限才讓我們感到將有限的生命溺斃於虛無縹緲的過去種種是多麼可憐又可悲的做法;正是因為時間的無情讓我們看到逝者如斯不舍晝夜,再如何追悔,皆是枉然;也正是時間賦予的閱歷使我們reenex 好唔好終於認識到只有卸下過去沉重的包袱,才能迎接重生後的自己。

  洗盡鉛華,那是一種生命淡如水的境界。  
タグ :境界


Posted by Aminy at 13:20Comments(0)life

2016年08月01日

跳下懸崖找活路


一樵夫,上山砍柴,不慎跌下山崖,危急之際腰背痛,他拉住了半山腰處一根橫出樹幹,人吊在半空,但崖壁光禿且高,爬不回去,而下麵是崖谷。樵夫正不知何是好,一老僧路過,給了他一個指點,說:“放!”
  既然能上,既然惟一能夠想像活命的可能途徑已經證實沒可能,半天吊著肯定只能等死。那就只有往下跳了——不一定活,但也不一定死。
  也許可以順著山勢而下,緩和一點沖下去的重力。也許半途能夠有另一棵樹,那麼就可以再減掉一次衝力。也許沒有,也許真的得死,但還有一個可能性,也許不會死。
  這故事最大啟發,是人們對未知的態度
  做人常有進退兩難的場面,與其夾在中間等死,倒不如別浪費支撐的精力,將全副精神付諸一博,跌下去會死,但已經無法爬上去了,就算博個萬分之一希望,畢竟還是一線生機。
  很多時候,猶豫不決真要比墮落還要消極。我親眼見過不少人就在猶豫不決的邊緣,唉聲歎氣,半死不活,人格恒常處於分裂狀態之下耕牛了一生。這些“慣於淩空”的人,最熟悉的恐怕就是自己一臉無奈的表情,和那些多餘的自我解釋,但生命總有個期限,誰能跟生命玩角力?
  教人跳下懸崖找活路,是不是瘋了?
  假如每一回你都當那一次決定的行動是你最後的一線生機,那你可以做到許多他人無法做也無法想像的事。你的生命有自己一套專屬的價值觀,你會有另一個思維足以自由闖蕩的空間。你有自己的精神認知。這也許不能改善你飯菜的味道,但對生命來說,這個精神認知,至為重要。
  淩空擺蕩,浪費時間而仍然不會有結果。最後誰都不能在半空中撐上多久,既然使勁保持半天吊,倒不如趁自己頭腦還清醒,體力還能賭多一次的時候,好好控制自己的命運。
  跳下去,不一定就活不了Alphamind補習社。  


Posted by Aminy at 15:42Comments(0)life